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3:魔物憑き文字を読むということは、声を出す必要がある。人によってその程度はさまざまだが、習いたての者は会話をすくらいの大きさで読み上げる。読むことに慣れるに従い小声でも読めるようになるという。途中で声をかけられるのは、会話に割り込まれるようなもので、返事をしながら読み続けるのは不可能。
学校に通った経験のあるヘリオはパンを食べる合間にそう語った。
この季節、さすがに裏庭での食事は寒い。兵士の詰所で大人に囲まれての昼食に、タラッタは居心地の悪さを感じていた。相変わらず食が細い。
豪快にパンや干し肉を口に押し込む兵士たちにも、セレネが引き起こした騒ぎは伝わっていた。ヘリオの説明によって何が問題になっているのかを理解したようだ。
「つまりセレネちゃんは、黙って会話をするようなあり得ない事をやらかしたわけだな」
ディニの所属する中隊の隊長が難しい顔をして唸るように言った。
「こりゃ神殿が黙ってないぞ」
「脅かさないでくださいよ、イファロス大尉殿」
ディニが中隊長の言葉に眉をしかめた。
「なんで神殿が」
ヘリオは空になったカップを弄びながら尋ねた。深刻な事態だが、それよりもスープが飲み足りないことの方が問題だという顔をしている。
「人間にはあり得ないことをした。これでは魔物憑きか、下手したら魔物そのものだって事もあり得るんだよ。そうしたら神殿の管轄ですよね」
若い兵士、アイギスがヘリオに答えた。愛すべき先輩の愛娘であり、頼もしい後輩の妹に起こるであろう悲劇の予感に声が震えている。
「魔物憑き」
さっとヘリオの顔が青ざめる。
「そんな子には見えないけど」
タラッタもショックを隠せずに俯いた。
【魔物】とは神のある側面のことだ。一柱の神もいくつかの顔を持つと神話は伝える。
神界には多くの神々が存在し、晴れ渡る空も、恵みの雨も、畑の実りも、すべて神の力によるものである。
しかし太陽の神の力が強すぎれば大地は乾き作物は枯れ、雨の神が力加減を誤れば街は水浸しになり疫病が流行る。
神の堕ちた側面を【魔物】と呼ぶ。人は魔物を、神の力を借りて封じるのだ。
魔物は時に封じを破り人間に取り憑き、あるいは人間になりすまして生まれる。その力を振るって人を惑わし堕落させ神が護る人界を破壊することで、封じられた恨みを晴らそうとするのだ。
「まあ、まずは飯だ」
沈黙を破ったのはディニだった。
「お前それだけしか食わないのか。もっと食え」
わざわざ席を立ってディニが、野菜の煮込みをタラッタのカップに注ぎ足した。
すかさずヘリオが自分のカップをディニに差し出すが、無情にも鍋を部屋の隅のテーブルに戻してしまった。
「親父、俺にも」
「自分でよそってこい」
「ケチ」
ヘリオが文句を垂れると、大人たちが苦笑した。
その日のうちにセレネの噂は街中に広まった。タラッタの母親は気味が悪いとぼやいている。
「あの子、頭が良いとは聞いてたけど、やっぱり魔物憑きだったのね。きっとお城の人を惑わしたのよ」
夕飯の片付けをする間も口はせわしなく動く。タラッタは日課になった剣の素振りを終えて、汗を拭きながら聞いていた。
「ずいぶん変わった子らしいからな」
兄が母親に同調する。姉たちも魔物憑きと関わってしまったから、良くないことが起こるのではと厭そうに話している。
「違う。セレネちゃんはそんな子じゃない」
タラッタは黙っていられず反論した。母親が哀れっぽく見つめてくる。
「そりゃあんたはあの子とはよく会うし、魔物憑きとは思いたくないかもしれないけど」
「それこそ惑わされている証拠よ」
上の姉が糸を紡ぎながら心配そうに言った。下の姉も縫い物をする手を止めて頷く。
「明日になれば城で何かわかると思うから」
タラッタは話はお終いとばかりに寝床の支度を始めた。