彼女に文字が読めるワケ

序章

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月夜の祈り

 知之神は闇之神の眷属とされる。そのため夜に祈りを捧げるのがよい。仕事で街を出た帰り道、人目を忍んで街外れの神殿に行くには好都合だ。
 月に照らされて、兵士らしく革の胸当てをつけた男が神殿の門をくぐった。小麦や木の実が入った籠を下げている。童女はもう休んだのだろうか、聞こえるのは男の足音ばかりだ。梟の声さえ今夜はしない。
 男は表の間の脇にある小祭壇に歩み寄ると、その前に膝立ちになった。持参した小麦と木の実を供える。籠を脇に置くと両手の指を組み、親指を額にあてた。目を閉じ祈る男の姿は真剣そのものであった。
 月が少し動いた頃、ようやく男は立ち上がった。背はさほど高くないが、腕も脚も逞しい。伸ばしっ放しの髪を麻ひもで括り背中の中ほどまで垂らしている。
「文字が読めれば俺だってもう少し」
 膝に付いた土を払いながら愚痴が零れた。骨張った手は若者らしいハリがあるがすでに二十歳を超えている。文字を覚えるには遅いと言われる年齢だ。
 もっとも、文字が読めないことは恥じることではない。この街に住む者で、たった一文字でも読める文字がある者は三人に一人くらいだろう。すべての文字をとなれば、文官にも何人いるか。「読む」ということは、それほどの特殊技能なのである。文官は見習いであっても地位が高く、豊かな生活ができるのもうなずける。兵士でも文字が読めれば階級が上がりやすい。だからこそ男は文字を覚えたかったのだ。
 しかしいまさら文字を教わるためだけに見習い仕事に就くわけにもいかない。二人の子供を抱え、さらにもう一人妻のお腹にいるのだ。収入を減らすことはできなかった。

 神殿を出た男は帰路を急いだ。酒場から漏れる灯りが目に毒だ。いつもならば仕事の後に立寄るところだが、妻の出産が近い今は控えている。
 街の中心近くはまだまだ喧騒に包まれていた。酔って高揚した男たちの声につられて一杯ひっかけたくなる。事情を知ってなお付き合いの悪さを指摘する友人が、わざわざ酒場から出てきた。
「ちょっとくらい寄って行けよ。みんな集まってるんだ」
「そうしたいけどな、あれが怒るんだよ。無事産まれたら付き合ってくれ」
 後ろ髪を引かれながら酒場の前を通り過ぎる。男の家は街の中心地を通り越してしばらく先だ。ぐずぐずしていては妻が心配する。

 出産に男の出番は少ない。いよいよという時に室内に入るのは女だけであり、赤子を洗ってやるのは妻の母親の役目だ。男はただ家の前でおろおろするばかり。邪魔だと文句を言われても仕方がない。それでも家の前で待つことが男の役割なのだ。
「あんたどこに行ってたのさ。あんたの奥さん、もう産まれるって騒ぎになってるよ」
 家まではもう少しというところで、男に声をかける者があった。近所に住む年配の女性だ。
「ずいぶん探したんだよ」
 慌てたように男の腕を掴む。家まで引っ張っていくつもりらしい。
「昼前にお腹が痛いって言い出して、日暮れごろから始まったんだけどね、お城に迎えにやっても今日は街の外に出ててつかまらないっていうし、いつまでたっても帰ってこないし、まったくこんな時にどこに寄り道してたんだい」
「ええ、ちょっと」
 ちょっとじゃないよと言う女性の声を隣に聞きながら、いつしか駈け足になっていた。男の家はこの路地の一番奥である。

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