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十二月も終わりに近付くと、卒論の執筆もいよいよ佳境に入る。締め切りまであと二週間、
昼過ぎに淹れた珈琲がすっかり冷めていることに気が付く。淹れ直すよりも夕飯にしようと立ち上がった。
以前は食事を欠くことも多かった御厨だが、秋以降は比較的まともな生活を送るようになった。その原因となった人物の顔を思い出し、軽く舌打ちをする。何かと調子を狂わされる相手だ。
何か食材は無いかと台所に入ったところでインターフォンが鳴った。
「御厨さん、俺です」
受話器を取るより早く、来訪者が叫んだ。
「オレオレ詐欺なら間に合っているんだが」
廊下から叫び返して玄関に向かう。ガラガラと古い引き戸を開けると、声の主、藤堂高巳が立っていた。平べったい荷物からは、香ばしいような、ほんのり甘いような匂いがしている。
「御厨さん、夕飯もう食べちゃいましたか」
上がれとも言っていないのに、当然のように上がりながら藤堂が聞いてきた。
「これからだ」
「よし、ちょうど良かった。ピザ買ってきたんで一緒にどうです」
この男に何を言っても無駄。この半年でそう学んでいた御厨は、藤堂を茶の間に通した。
「御厨さん、今日は何してたんですか」
ピザの箱を開けつつ藤堂が尋ねる。
「卒論」
「今夜の予定は」
「卒論の続き」
御厨が番茶を湯飲みに注ぐと藤堂は変な顔をした。構わず皿を突き出して一切れ催促する。
「順調ですか」
「藤堂に心配されるほどでは無いな」
マルゲリータを取り分けようとする藤堂を制してコーンマヨを要求する。
「やっぱり」
「何で残念そうなんだ」
「だって御厨さん、卒業提出したら卒業確定ですよね」
成績優秀だしと藤堂がぼやいた。御厨にコーンマヨを渡し、自分はマルゲリータを取る。
「そもそもウチの大学程度で卒論を落とすような事はないだろう」
未提出でもない限りと言う御厨に、そうですけどと藤堂が答える。御厨は一切れ目を食べてしまうと、今度はマルゲリータを取った。藤堂の二切れ目も同じものだ。
「そうしたら、大学に御厨さんがいなくなっちゃうじゃないですか」
藤堂は不満そうだ。
「もう一回俺と一緒に四年生やりましょうよ」
「学費の無駄」
「そこを何とか」
「ならない」
「デスヨネー」
藤堂は大袈裟に落胆してみせた。
食事を終えても、藤堂は帰る気配を見せなかった。番茶をすすって無駄話をしている。
「クリスマスくらいクリスマスしましょうよ。順調なんでしょう、卒論は」
そう言われて、御厨は今日の日付に思い当たった。
「それなら昨日の夜にガチョウを買ってくるべきだったんじゃないのか」
もともとは二十四日の日没から二十五日の日没までが「クリスマス当日」であり、昔のイギリスではガチョウが食べられていたらしいという話を踏まえての発言である。
「さすがにイブの夜は遠慮しますよ。彼女とかいたら申し訳ないですし。それにガチョウなんてどこで売ってるんですか」
「ならターキー」
「だからそんなものその辺のスーパーにはないですって」
あっても高いですしと藤堂が言う。
「なら来年はイブにチキンだな」
御厨の言葉に、藤堂は目を丸くした。
「用意してくれるなら飯くらい付き合ってやる」
「だって来年は御厨さん、社会人じゃないですか。仕事の都合とかわからないでしょう。果たせるかも分からない約束はしないでください」
藤堂は寂しそうに目を伏せる。
「ああ、まだ言ってなかったか。院進するから社会人にはならないから」
大学院への進学が決まっていると告げた。
「マジですか」
「マジだ。大学からいなくなるわけでもない」
今後も高千教授に師事するとはいえ研究室は学部生とは異なるが、同じキャンパスで過ごすことには変わりないことを伝える。
「ウチの大学の、院、なんですね」
途端に藤堂が嬉しそうな顔になった。
「バイトで
「そうだったんですね」
「だから藤堂、お前が俺の前でそのヘラヘラした仮面を剥がすなら、来年の約束くらいしてやってもいい」
虚を突かれた藤堂の表情が、一瞬なくなる。藤堂がなにか言い出す前に卒論の続きに取りかかろうと、御厨は立ち上がる。
「あと少し書いたらキリが付く。泊まっていくなら片付けと風呂の支度を頼む。先に入っても構わないから」
「いいんですか。いつもは嫌がるのに」
驚いた様子で藤堂が聞き返した。
「クリスマスにはクリスマスらしくしろといったのは藤堂だろ。パーティーとはいかなくても酒くらいは付き合ってやる」
鞄に入っているんだろうと御厨が言うと、バレてましたかと藤堂が肩をすくめた。
御厨が風呂から上がったのは、日付が変わった頃だ。寝室で、ベッドを背もたれ代わりにし、並んで床に座る。その向こうには、客間から持ってきた布団が敷いてある。
「メリークリスマス」
藤堂が持ってきた缶チューハイで乾杯をした。つまみは御厨がいつ開封したのか分からないピーナツを出してきたが、藤堂はちょっと引きつった顔で遠慮する。
「もうクリスマスは過ぎたけどな」
缶をぶつけながら御厨が言う。
「御厨さんが結局ずっと卒論書いてたせいっすよ」
嫌み交じりにそう答えて、藤堂は強い缶チューハイを呷った。御厨は酒を口にする前からすでに眠そうだ。とろんとした目をしきりにこすっている。
「仕方ないだろ。院試があって準備が遅れたんだ」
酒には弱いくせに酒好きの御厨は、心なしか嬉しそうに度数の低い葡萄味の缶チューハイを飲んだ。
「院試っていつだったんですか」
「九月」
「そんなに前だったんですか。じゃあ合格発表は」
「九月の末だった」
「じゃあ後期始まったときにはもう院進決まってたんですね」
ずっとモヤモヤしてて損したと藤堂が口を尖らせる。
「せっかく親しくしてくれるようになったのに、すぐに縁が切れたら嫌だったんですよ」
「少なくともあと一年は切らないでおいてやる」
うとうとし始めた御厨は、頭を藤堂の肩に凭れさせた。
「じゃあ来年もウザいくらい面倒見ますか」
「頼む」
藤堂の軽口に、御厨は真面目なのか冗談なのか分からない調子で返事をした。そのまま目を閉じる。
「寝るならちゃんとベッドに入ってください」
「まだ酒が残ってる」
薄目を開けて缶を口元に運ぶ。
「半分寝てるじゃないですか」
藤堂は御厨から缶を取り上げ床に置くと、御厨を抱えた。すぐ後ろのベッドに横たえたときには、すでに御厨は寝息を立てていた。腕を藤堂の背に回したまま、離そうとしない。
一瞬躊躇った後、藤堂は自分もベッドに潜り込んだ。
御厨の唇からは、微かに葡萄の味がした。