Views: 15
岡本郁恵は、茶道部内では姫と呼ばれる、長い髪を背中に垂らした女子生徒だ。三年生で悠翔たちより一学年上である。
そして、悠翔の交際相手でありながら、夏休みからはほとんど会っていないという。受験勉強とアルバイトで忙しいというのが郁恵の言い分である。
「ベーシストの心当たりって」
「そ、姫先輩のこと」
茶道部でたった二人の男子部員である彦田が頷いた。
「実は、郁恵先輩とは練習スタジオで何度か会ったことがあったんだよ」
鳴澤が言うと、郁恵が形良い眉をひそめた。
「彦ちゃんが来いって言うから、まあなんとなくは想像がついていたわ。でもよっくんもそのことは黙っててって言ったわよね」
「それはゴメンって。でもさ二人のこともちょっと見てられなかったって言うか」
珍しく歯切れの悪い鳴澤に、郁恵は仕方なさそうにため息をついた。
「つうか、俺のことは岡田君呼びで、鳴澤のことはよっくんなんだな。彦田まで彦ちゃんだし」
鳴澤の名前、芳孝から取っているのであろう親しげな呼び方に、悠翔は不満げに唇を尖らせた。
「まあ、なんとなくよ。呼び方なんてそんなものでしょう」
悠翔と彦田の料理を運んできた店員に、郁恵と彦田が追加の注文をする。その間、悠翔はじっと郁恵のことを見ていた。
和やかとは言いがたい食事ではあったが、郁恵は文化祭でバンドを組むことを了承した。
「つまり、その時城くんを文化祭にちゃんと参加させたいって事よね」
「うん。時城は去年もろくに参加しないでつまらなそうにしてたから」
「そういうの勿体ないじゃん」
彦田の言葉に、鳴澤も同意する。
「でもさ、姫ちゃんがベース弾けるのって意外だな」
悠翔の言葉に郁恵が呆れた表情をする。
「岡田くんて、結局は人の表面しか見てないし、自分の見てるイメージを求めるところがあるわよね。だから、言い出しづらかったのよ」
「バンドも組んでるの」
「いいえ、今はもう。中学生の時に軽音楽部で弾いていたから、今も時々弾きたくなるだけよ」
悠翔が大して知りたいとも思わずに訊ねると、郁恵も義務的に答えた。
彦田と鳴澤がさっと視線をかわす。
この二人、付き合ってるんだよな? とでも言いたげにしているが、お互い口には出さなかった。
「というわけで時城がボーカルに決まったから」
翌朝、教室に入った夏由は、珍しく早い時間に登校していた鳴澤に言われて面食らった。
「楽譜とMD渡しておくから、歌詞だけでも覚えておいて」
彦田がコピーした束を渡す。返事も出来ないまま受け取った夏由は、楽譜に目を落とした。
「ああ、『smoke on the water』か。これなら知ってる」
夏由が小さく口ずさむと、鳴澤が軽く頷いた。
「知ってるなら良かった。早速今日から練習だから」
教室の後ろに立てかけてあるギターケースを指さして鳴澤が言った。
クラスの出し物で、夏由が担当する廊下の飾り付けの準備は昨日で概ね終わっている。後は細々した飾りを作っておき、前日準備の時に設営をするだけだ。練習時間も取れるだろう。
「良いけど、スタジオとか借りるならお金がかかるんだよね」
「いや、基本的に学校でやるから」
文化祭の準備期間は、多目的室と第2音楽室が練習用に割り当てられる他、教室や廊下の邪魔にならないところで音を出しても目こぼしされる。
人目につくところで歌うのは、少し恥ずかしい。だが、舞台に上げればどっちにしろ人に見られるのだと思い直した。
ギター初心者の悠翔は、一音一音押さえて弾くだけでも苦労して、なかなか曲の練習にならない。
廊下のすみに陣取った悠翔に、鳴澤がつきっきりで教えているのを、彦田が見ている。夏由は音取り用のピアノ音源を入れたMDを、彦田に借りたプレーヤーで聞いていた。
顔を出した郁恵は、夏由を紹介された後、「練習が出来るようになったら呼んでね」と言って去った。茶道部の練習もあるようだ。
「どう、イケそう」
イヤホンを外した夏由に、彦田が訊ねた。
「曲自体は何度も聞いてるから、多分。楽譜通りの音って言われたら自信はないけど」
「まあ、大体で良いでしょ。岡田だって大体それっぽく弾くだけだし」