ひとしれずこそ1章

むかしはものを

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   その人は、俺をちゃんと子供扱いしてくれた。


 墨東高校、と書いて、石上いしがみはじめはそれを消した。
 中学二年生も半ばを過ぎれば、具体的な進路を考え始めなければならない。出勤前の濃い化粧をした母親に相談するのもはばかられる。歓楽街で働く母親のかなえとは、何日も口をきかないことも珍しくはなかった。
「それ、親のハンコいるなら押しておきなさい。玄関にあるから」
「いらないやつ」
 珍しく提出物を気にするかなえに、肇は素っ気なく答えた。
「そう。じゃあ行ってくるから、戸締まりと火の始末は忘れないでね」
「分かってる」
 コツコツと響くハイヒールの音が遠ざかる。
「クソッ」
 肇は机代わりの卓袱台に拳を打ち付けた。

 物心つく頃に両親は離婚。肇の母親、かなえは、収入が良いほうではない。その上、仕事柄なのか衣服や美容にお金をかける。肇が高校進学を望みながらもそれを言い出せないのは、そんな事情もあった。
 肇は担任から、都内で中堅とされる高校を勧められており、肇自身も大学進学を見据えてその学校を進学先として考えている。
 もう一度、墨東高校と書く。卓袱台ちゃぶだいには請求書。十歳の時から住んでいる2DKのアパート。水道は滅多なことじゃ止められないわと笑う母親。買ってもらえなかった学習机。冷凍食品と出来合いのお惣菜が入った冷蔵庫。罪滅ぼしのような味噌汁は冷めたままコンロの上に。母親の年甲斐もなく派手な衣服。小さくなった消しゴムで、再び消す。ひびの入ったシャープペンシル。
 肇は迷った末、就職希望の文字に丸を付けた。

 昼休みに職員室へ呼び出された肇は、朝に提出したばかりの進路希望調査票を見せられた。
「親御さんとは、ちゃんと相談して決めたのか」
「……はい」
 担任の吐く息は、コーヒーと煙草の混じった匂いがする。
「さっき、家の方にも電話してみたんだけどな。親御さんも、本人がそういうならって言っててなあ」
「そうですか」
「出来るなら進学しておいた方がいいとは思うんだが。定時制なんかもあるし」
「考えては、みますけど」
 中卒じゃあいい仕事はないぞと言うと、担任はちょっと声を落とした。
「その、やっぱり厳しいか。学費とか」
 机の上に置いた家庭調査票を見て唸る。父親の欄に名前がない。母親の職業はパート。
「これ渡しておくから、奨学金なんかも考えてみろ。返済が辛ければ教師にでもなっちまえばいい」
「はい」
 育英会の資料を渡された肇は、軽く一礼して職員室を出た。

「おかえり。今度は何やらかしたんだ」
 教室に帰った肇は、漫画を読んでいた級友の牧野に声をかけられた。一緒に授業をさぼり、何をするでもなく薄暗い路地に座り込んでいるような仲だ。
「進路希望に開成・麻布・武蔵って書いたら怒られた」
 牧野から漫画を取り上げ机に腰掛けると、パラパラとめくりながら答える。牧野は椅子に浅く座ると、だらしなく背もたれにもたれた。
「先公にはしゃれってモンが分からんのかね」
 牧野は肇の言葉を真に受けず、だが、はぐらかそうという肇の意図を汲んだようだ。
「どうせしゃれで怒られるなら、女子学院とでも書いとけば良かったか」
「お前なら潜り込めそうじゃね? タッパねえし顔もまあまあじゃん」
「るせえ」
 肇は机から降りると、牧野が座っている椅子を蹴飛ばした。
「俺はこれから伸びる男なんだよ、お前みたいなウドの大木とは違ってな」
「おっと」
 バランスを崩した牧野が椅子から滑り落ちる。肇は腕をつかんで引き起こしてやった。教室にいる他の生徒は、二人を冷ややかな目で見ていた。

 母親は今日、休みだった。肇は、久しぶりに化粧をしていない母親の顔を見た。嗅ぎなれない匂いに部屋の中の匂いに鼻をひくつかせる。煙草を変えたらしいと見当を付けた。昨日までの甘ったるい匂いではなく、メンソールの強い匂いがする。
「また彼氏が出来たの」
「今度の人はね、会社の社長さんなの」
 仕事先で知り合った相手と、恋愛ごっこ仕事を超えた仲になることが何度かあった。
「それより肇、学校から電話があってびっくりしたわ」
 肇は着替えてくると言って、自分の部屋にしている和室に入った。
「遠慮することないのよ。本当に就職したいならそれでもいいけれど、あんたを学校にやるくらいのお金、なんとでもなるんだから」
 ふすま越しに、気楽そうな声が届く。肇は小学生の時から着ているパーカー着た。中学校に入り制服を着るようになってから、服などねだったことはない。ときどき買い与えられるスーパーの安物で満足するしかなかった。
「家賃だって溜めてるくせに」
「ああ、あれはちょっと振り込みに行くのを忘れてただけよ」
 そのくらいのお金は確保していると母親は笑った。
「その男からいくら引き出す気かは知らないけど、母さんの彼氏の世話になる気はないよ」
 肇は敷きっぱなしの布団に潜り込んで耳を塞いでしまった。


 肇の将来について話し合いがなされないまま、学年が変わった。
 ゴールデンウィークの土曜日、肇は母親に連れられて、相手の男の家に行った。通された客間は、張り替えたばかりの畳から、い草の強い匂いがしていた。
「肇くん、初めまして。時城義男と言います」
「初めまして」
 年配の、というより肇には老人に見える男が正面に座った。この人が自分の母親、かなえの交際相手だと言うことは事前に聞かされていた。肇は挨拶をしてからは、少しうつむいて、座卓の木目ばかり見ていた。
「中学生だって。学校はどうかな」
「まあ、普通で」
「普通か。それは良かった」
 義男老人は目尻にしわを作って笑った。この老人が自分の父親になることを、肇は人ごとのようにしか考えられなかった。
 義男の後ろには、彼の息子が座っていた。昭夫、と名乗ったきり黙っている。
「これには、小学生の子供がいる。肇くん、仲良くしてやってくれ」
「はい」
「私もこの間会ったけれど、かわいい子よ。たしか、今年で三年生よね」
「そうだったかな、昭夫」
「そうです」
 昭夫はむすっとしたまま返事をした。
「それにしても、和郎のやつ遅いな」
「もう来るよ」
 噂をすれば、玄関の開く音が聞こえてきた。
 パタパタと廊下を小走りにやってくる音が聞こえる。
「父さん」
「入りなさい」
 義男が呼び込む。肇は襖を見上げた。柔和な顔立ちの男性が入ってくるところだった。
「遅くなりました、かなえさん。えっと」
「肇です」
 男の視線に答えて、肇は名乗った。軽く頭を下げる。男の右足の靴下が少し脱げかけて、つま先がだぶついている。かかとが外くるぶしのところまで回っていた。
「肇くん、こんにちは」
 男は座りながら、さりげなく靴下を直した。
「和郎です」
 かなえとはすでに面識があるようで、和郎は肇にだけ名乗った。畳についた指先がきれいに揃っている。
「肇くん。悪いけれど、ちょっと外してくれないかな」
 和郎が言った。
「息子さんだ。何ものけ者することはないだろ。これから家族になろうというのに」
「子供の前でする話でもないでしょ」
 和郎は父親に反論すると立ち上がり、肇の肩に手を触れた。
「あの、俺は、大丈夫です」
「それ見ろ。中学生なら立派に大人だ。な、肇くん。昭夫もそんな隅にいないで、ちゃんと席に着きなさい」
 渋々昭夫が義男の隣に着いた。かなえと向かい合う位置だ。和郎は、座卓の横、肇の斜め前に座り直した。和郎の気遣うような視線が、肇には温かく感じた。

 中間考査が終われば、いよいよ進路についての話し合いから逃げることが出来なくなる。
 進学を勧める担任に対し、肇は三者面談でも、就職を希望すると言い張った。母親は肇のしたいようにすればいいと真剣味がない。その場では結論が出ず、家でもう一度話し合ってこいと担任に言われた。
「就職でいいなら母さんはいいけど、本当にいいの」
「いいよ。就職して家出るから」
 食卓で化粧をする母親の向かいで、肇は宿題を広げていた。手はほとんど動いていない。
「あら、出ることなんてないでしょ。家から通えばいいじゃない」
 母親がファンデーションを厚く塗りながら言った。
「あんたも支度しなさい」
「俺は行かないからいいよ」
 肇は持っている中ではましなTシャツを着ている。義男に夕飯を誘われた母親から、肇も付いてくるように言われているのだ。
「ダメ。上着はいいからワイシャツを着てらっしゃい。ちゃんとしたところでお食事なんだから。せっかく義男さんがあんたにもって言ってくれているのよ」
「子連れで同伴するホステスなんて聞いたことがない」
「あら、今日はご飯だけよ。お仕事はお休み」
「金曜の夜に。稼ぎ時に休み取ったんだ」
「花金なんてバブルと一緒に弾けたわよ。それに、昭夫さんはお子さんも小さいし都合が付かないそうだけど、和郎さんもいらっしゃるのよ」
 和郎の名前に、肇は顔を上げた。
「じゃあ、今日もこの前の顔合わせの続きみたいなもの」
「そうね」
 先日の顔合わせは、特に昭夫の反対によりこじれてしまった。肇は黙って食卓を片付けると、着替えのために部屋に入った。
 
 先日の雰囲気とは打って変わって、食事会は和やかに進んだ。肇にとってははじめての会席料理だ。順々に出される料理に肇は少しわくわくした気分になった。
 和郎は話題が豊富な人ではないようだが、学生の頃に読んだ本や、子供の頃に夢中になった鉄道模型について、静かな調子で話した。
「まあ、和郎さんは読書家さんなんですね」
「それほどでは。肇くんは好きな本はあるかな」
「俺は、本はあんまり。でもさっき言ってた本は読んでみたいです」
 肇がタイトルを言うと、和郎は笑顔でうなずいた。
「読んでみるといいよ。良かったら貸そうか」
「鉄道好きと思ったら、本まで特急列車か。肇くんは受験生だろ。そんな下らん本なんか、まあ読むなら受験が終わってからにしなさい」
 義男が口を挟んだ。
「いや、この本はバスの旅だよ。受験勉強の気晴らしにでもすればいいよ」
「あら、この子は受験はしないつもりなのよ。就職するんですって」
 かなえがさも当たり前という口調で言った。
「肇くん、本当かい」
「はい」
 驚いた様子の和郎に聞かれて、肇が答えた。
「高校に行く余裕もないですし」
 恥ずかしそうに付け足す。
「そんなことは心配ない。私が肇くんの父親になるんだ」
「それとは関係ないです」
「肇くん。もっとよく考えた方がいいよ」
 和郎が今度は心配そうに言った。
 果物が運ばれてきたのをいいことに、肇は返事をしなかった。


 もう一軒飲みに行くというかなえと義男と別れ、肇は和郎と連れだって駐車場へ向かった。和郎の車は、年式の古いクーペだった。
「どうも、古くさいものが好きな性分みたいで」
 肇が助手席に座ると、和郎はエンジンをかけた。
「音楽も今時のは分からなくて。肇くんは何を聞く」
「CDなんて買えないし、給食の時間に放送されるのをちょっと聞くくらいで」
「そうか。じゃあ、イギリスの、例えばニューウェーブとか言われても分からないよね」
「ビートルズなら、音楽の授業で、ギターで少しだけ。先生が好きとかで」
「ビートルズを授業でか。今はそういう時代なのか」
 和郎は赤信号で止まると、助手席側に体を伸ばした。グローブボックスを開ける。
「ディープパープルしかないけど、聞いてみる」
 取り出したカセットテープを肇に渡す。肇はケースからカセットテープを取り出した。信号はすでに青になっている。
 流れ始めた曲に合わせて、和郎は指先で小さくハンドルを叩いてリズムを取った。
「気に入ったなら、ダビングしてあげるよ。それとも、CDを貸してもいいし」
「ステレオとか、家にないから。カセットも聴けないし」
「じゃあ、お古で良ければウォークマンをあげるよ」
「そんな、そこまでして貰ういわれは」
「遠慮はしなくていいよ」
 肇は和郎から顔を背けて、窓の外を見た。
「何かをして貰うのって、いやなんです。施しは、惨めだから」
 ぽつりと、肇はつぶやいた。
「だから、早く自分で稼げるようになりたい」
「それで高校も行かないつもりなのかい」
「小学校二年生の時には、ゴミ捨ては俺がやってました」
 肇は、窓の外をぼんやりと見ながら言った。
「ランドセル背負しょって、学校に行く前に。そうすると、近所の人が飴とかクッキーとか、くれるんです。友達も見てるけど、何も言わない。かわいそうな子だズルくないんだって、親に言われてるんです」
 和郎は、京葉道路に車を進めた。
「学校にはお菓子を持って行ったらダメですけど、俺が貰ったクッキーを持ってても、先生は見ない振りするんです。子供会でもお祭りでも、半端に余ったお菓子とか、クリスマス会ではプレゼントのロケペンとか、いい匂いの消しゴムとか、余分にくれるんです」
 和郎は、控えめに相づちを打ちながら聞いていた。
「そういう特別扱いをされて、その分、いい子でいなきゃいけない気がしてたんです。母さんも、パートで苦労しながら子育てする人って思われてたんですけど、俺が四年生の時に水商売を始めてからは、近所の人の目も変わって。アパートも出なきゃいけなくなって」
 和郎は、一度アクセルを戻して速度を落としてから、今までよりも加速した。右車線の流れに合わせる。それからハンドルをじわりと右に切る。
「え、」
 肇は驚いて和郎を見た。肇の住むアパートに帰るためには、次の交差点で左折しなければならない。
「ちょっと寄り道しよう」
 和郎は車線変更して、そのまま交差点を右折した。

 さらに別の大通りへと曲がり、和郎の運転する車は千葉方面へ進んだ。
「肇くんは、普通の子どもでいたかったんじゃないかな」
 和郎がそう問いかけた他は、もう会話はなかった。肇は、タイトルの分からないディープパープルの曲をただ聞いていた。
 やがて和郎は、深夜まで営業しているディスカウントショップの駐車場に車を止めた。寄り道と言うには、ずいぶんと遠いところまで来たと肇は思った。
 肇は、迷路のような店内を進む和郎について行く。オーディオ機器コーナーの前で和郎は止まった。
「好きなのを選んでいいよ」
 ポータブルカセットプレーヤーを肇に示して和郎が言った。
「でも、俺お金ないし」
「買ってあげる」
「だから俺は、人に買って貰ったりとか嫌だって」
「僕は肇くんの兄になるんだ。兄らしいことをさせてくれ」
 これはどうかなと、和郎は一つ手に取って肇に渡した。
「こっちは、僕とお揃いになっちゃうけど」
 別のメーカーのものを掲げる。ウォークマンだ。
「録音も出来てラジオも聴ける」
 肇は持っていた商品を棚に返すと、和郎からそれを受け取った。ボタンを押してみる。熱心に確かめる様子に、和郎は口元を緩めた。
「気に入った」
「はい」
「じゃあそれにしようか」
 そばに陳列されているカセットテープをまとめて取ると、和郎が店内を更に進んだ。
 肇はこれを欲しい気持ちと、もらい物をしたくない気持ちの間で身動きがとれなかった。
「ウォークマンだけあっても仕方ないし、今からうちへおいで。何かダビングしてあげるよ」
「じゃあ、さっきのカセットの」
「あれでいいの? CDコーナーもあるから、学校で流行ってるのとか選んでいいよ」
「あれが、もう一度聞きたいです」
「いいよ」
 和郎は肇からウォークマンを受け取ると、レジに向かった。


 その日はもう遅くなったからと、和郎の家に泊めて貰った。肇は電車で帰ると言い張ったのだが、心配した和郎が引き留めたのだ。和郎のベッドを借りた肇は、はじめて男の人の匂いに安心感を覚えた。

「和郎兄さんは」
 昨日、「僕は肇くんの兄になるんだ」と言った和郎に、肇はそう呼びかけて、急に照れくさくなった。
 台所で味噌汁を作っていた和郎は、特に気にした様子もなく「なんだい」と返事をした。
「今日は休みなんですか」
「今日は午後出勤なんだ。しまった、昨日は何も聞かないで泊まらせちゃったけど、肇くんは学校だっけ」
「いえ、今日は第四だから」
 去年から公立の学校は、第二と第四の土曜日が休みになっている。
「僕も二時までに出勤すればいいから、ゆっくりしていけばいいよ」
「じゃあ、今度は別の、和郎兄さんのおすすめの曲、聞きたいです」
「いいよ。じゃあまずは朝ご飯食べちゃおう。卵切らしちゃって、梅干しと納豆くらいしかないけど」
 メザシでも買っておけば良かったかなと言う和郎に、肇は十分ですと答えた。

 ――ブリティッシュロックとUKロックを、別のものと捉えるのが一般的かもしれないけど、定義は曖昧だと思うよ。一応は年代で区別してるのかな。僕はマニアとの付き合いもあるわけじゃないし、面倒だから全部UKロックで通しちゃってる……
 和郎が蘊蓄うんちくを傾けるが、それは肇の耳を素通りした。
 曲が変わる。
 ジェフベックのギターのもの悲しげな音に、肇は心を奪われた。少し身を乗り出す。
「『Cause We’ve Ended As Lovers哀しみの恋人達』だね」
 これはカバー曲でね、と言いかけて、和郎は口を閉じた。肇は昨日も和郎が好きなイギリスの音楽を楽しそうに聞いていた。だが、今この曲を聴いているほどの熱心さは感じられなかった。
 肇は一音も聞き漏らすまいと、息を詰めて、じっとオーディオ機器を見つめて集中している。
 和郎は物音を立てないように注意して立ち上がると、寝室に入っていった。

 次の曲に変わる時のわずかな無音。肇ははあと息を吐き出した。


 和郎は、肇を駅まで送る途中で、なじみのCDショップに立ち寄った。
「別に、車ぐらい出すのに」
「仕事前に申し訳ないですよ」
 相変わらず遠慮している肇を、洋楽コーナに連れて行く。棚に収められたCDの背を、指先でたどりながら見ていく。肇は平台に並んだジャケットをなんとなく眺めていた。
「あるかな……、ああ、あったよ。これがさっきの曲の入ったCD」
 すっと引き抜いたCDを肇に見せる。左手には、小さなCDラジカセを下げている。和郎がオーディオ機器を買う前に使っていたもで、肇に譲られたものだ。
 ジェフベックが参加しているアルバムを更に二枚持ってレジに向かう。
「和郎さん、」
「お兄ちゃんにはちゃんと甘えて欲しいな」
 肇がCDのプレゼントを断る文句を口にする前に、和郎は茶化した口調で言う。
「ありがとう、ございます」
 肇は店員から袋を受け取った。

 母親に、「親子揃って朝帰りね」と笑われた肇は、さっそくCDを聴きたくてうずうずしていた。だが上機嫌な母親がお茶を入れ始めたために、肇は少し不機嫌になって卓袱台についた。
「あんたが和郎さんになついてくれて良かったわ。再婚にも一応は賛成してくれたみたいね」
「そうなんじゃないかな」
 でなければ自身のことを「兄さん」とは言わないだろうと思いながら、肇が返事をする。一口飲んだ緑茶は、茶葉を節約・・したせいでほとんど味がしない。
「正式には決まってないけれど、あんたが中学校を卒業するときに籍を入れるつもりだから、そのつもりでいてね。式も、簡単でいいからしようって話しているの」
「あと一年もないか」
「あら、あと一年近くも待つのよ。待ち遠しいわ」
「新婚家庭の邪魔をする気はないから」
「それなんだけどね」
 母親が少し真面目な口調になったので、肇は席を立つタイミングを逸した。母親は、湯飲みを弄ぶばかりで飲もうとしない。
「義男さんが、やっぱりあなたを高校に入れるべきだって。あの人って経営者でしょう。世間体もあるし、義理とはいえ息子が中卒じゃあやっぱり」
「別に、結婚するのは二人の勝手だろ。俺のことは関係ないだろ」
「あるわよ、親子だし、親子になるんだもの」
「だって今まで就職でもいいって言ってただろ」
 肇は声を荒げた。
 肇とて進学をしたくない訳ではない。家計を考えれば学費を出して欲しいとは言えなかっただけだ。卓袱台には今日も請求書が無造作に乗っている。
「自分の暮らしが心配なくなった途端に進学しろって」
「だって肇、あんた就職するって言っても何の準備もしていないじゃない。どういうところに勤めたいとか、自分には何ができるとか、そういう事ちゃんと考えているの」
「それは、求人票を見てから」
「バイト情報誌だって見たこと無いじゃないのよ」
「就職は、学校を通してって先生が言ってるから」
 肇は思わぬ母親の言葉にうろたえた。確かに学校任せにしていて、準備らしいことは何もしていない。受験勉強を始めた友人たちとは、微妙な距離感も生まれていた。
「いい、就職したら、誰かが面倒見てくれて何でも先回りしてやってくれる訳じゃないのよ。正式な手続きは学校でして貰うにしたって、自分が就きたい職業も考えられないようじゃ就職なんて無理だわ」
「……だから受験しろって。あの男のお金で高校に行けって」
 肇は不快感を露わにした。母親にとっては大切な相手であっても、肇にとってはよく知らないおじさんである。そんな相手に進学費用を賄って貰うのはいい気分ではなかった。
「それから、ちょっと前に大家さんから電話があったんだけど、ここ、八月いっぱいで出て欲しいって」
 ついでのように母親が言った言葉に、肇は耳を疑った。
「夏休みに引っ越すわよ。義男さんの家に住むことになるから、そのつもりでね」


 就職の準備もせず、当然受験勉強もしないという、中学三年生らしくない時間を過ごした肇だが、夏休みに入るとさすがに少し不安になってきた。
 母親が買ってきた高校受験ガイドをめくる。開き癖の付いた墨東高校のページ。母親が勧めるのは、私立の男子校だ。偏差値は上位クラスだが肇の学校の成績から見ても手が届かないほどではない。校風もよく、名の知れた大学への進学実績も十分にある。
 夏休み前に急遽行われた三者面談でも、担任はその学校の受験には賛成だった。
 ただ一人反発しているのは肇だ。
「僕も中学校から誠朗だったけど、いいと思うよ」
 荷造りを手伝いに来た和郞が、受験ガイドを見て懐かしそうに目を細めた。肇はその言葉で、この学校を薦めたのが本当は義男だったことに気がついた。
「肇くんは、普通の子どもでいたかったんだろう」
「まあ、小学校の頃はそう思ってましたけど」
 和郞は受験ガイドを肇に返すと、衣類の箱詰めを再開した。大して持っていないと思っていた肇の服も、全て出してみるとそれなりの量がある。仕事を辞めた母親は、自分の化粧品や衣装の整理に追われている。
「だったら、親の金で高校くらい行ったらいいんじゃないかな」
「でも、義男さんのことはまだ親とは思えないですし、母親のお金は当てにできないですよ」
 家賃も払えずに家を出ることになったのだと肩をすくめてみせる。
 肇は、和郞の前ではリラックスして自分の気持ちを話すことができる事に内心驚いていた。和郞の側は居心地がいいのだ。少しでも長く一緒にいたいと思いからか、作業する手は止まりがちになる。
「あの親父なら、私学に通わせる費用くらい何でもないと思うけどね。でも、だったらそこはお母さんが営業努力したってことにすればいい」
「ホステスの営業ですか。それは一理あるかも知れませんね」
 冗談を言ったらしい和郞に、肇が笑った。
 和郞が辺りを見回す。肇は転がっていたガムテープを取って、テープを引き出した。和郞がフタを押さえている段ボール箱に貼り付ける。頬が触れあいそうなほど近くで作業をすると、肇は少し赤くなった。
「これで、梱包は終わりかな」
「はい。あとは明日の朝、鞄に入れて持って行きます」
 明日の朝、頼んである赤帽に荷物を運んで貰えばよい。
「夕飯、用意するのも大変だろう。何か食べに行こうか」
「じゃあ、母さんも呼んできます」
 気は進まないが、母親を残して食事に出かける訳にも行かないだろう。だが、荷物が片付かない母親は、二人で行ってらっしゃいと言って見送った。


 近所のファミリーレストランで、肇は鯖の味噌煮を、和郞はチキンソテーを頼んだが、運んできたウェートレスは、逆に配膳した。
「ハンバーグやステーキじゃなくてよかったのかい」
「こういう、和食っぽいものはあんまり食べないから、食べてみたかったんです」
 お盆ごと交換して、肇は箸を取った。端から身をほぐして一口分ずつ摘まみ取る。綺麗な手つきだと和郞が褒めると、肇はうれしそうに笑った。それから慌てたように表情を引き締める。
「僕は箸使いに自信がなくて、人前ではあまり魚を選ばないな。だから、会席料理なんかもちょっと気が重いんだ」
 そういう和郞の箸使いに、特別悪いところはない。
「子どもの頃、食事のたびに母に手をひっぱたかれてね」
「厳しかったんですね」
「一応、社長の息子って事でね。人前で恥をかかないような躾はされたと思うけど」
 それでコンプレックスになっては意味がないよねと和郞は苦笑した。
「でも」
 肇はお吸い物の椀を置いて一息つくと、先を続けた。
「人からどう見られるかで、損をしない振る舞いを身につけておくのは大事だと思いますよ。俺なんかは特に、母親の仕事が仕事だから、普通の子なら愛嬌ですむような事もだらしないように見られるから」
 最期に残った漬物を口に放り込むことで、肇は話を止めた。
「デザート、何か頼むかい」
 和郞もそれにあわせて話題を変える。
「一度食べてみたかったものがあるんですけど」
「どうぞ」
 和郞がメニューを渡すと、肇はパフェのページを開いた。
「この、一番大きいヤツ、頼んでもいいですか」
 店を決める時に、小遣いの少なさからファストフード店を選ぼうとした肇に、和郞は「自分が出す」と念押ししたのだ。
「もちろん。僕もシャーベットでも頼もうかな」
 肇が呼び出しボタンを押した。

 肇に新しく与えられた部屋は、元々は和郞が使っていた洋間だった。新しい机を用意すると言った義父になる予定の義男に、肇は和郞の使っていた物を引き継ぎたい言った。大学入学を機に買い換えたという机は、まだ綺麗だった。
 何より、和郞のお下がりというのが、不本意な状況で環境が変わる肇の慰めになった。
 寝具はさすがに新調したが、クローゼットもお下がりだ。
「まだあったんだな」
 荷ほどきの様子を見に来た和郞の兄の昭夫が、クローゼットに残っていた制服を見て懐かしそうに言った。
「誠朗高校、肇君も目指すんだって。親父が秋から家庭教師を付けてもいいなんて張り切ってるけど、ああいう私学の一貫校は、高校編入じゃあ肩身が狭いぞ」
 義男と肇の母親、かなえの結婚が確実な物になった途端に馴れ馴れしくなった昭夫のことが、肇は苦手だ。
「別に、俺は高校には」
「なんだ。まだそんなことを言っているのか。今どき中卒じゃあどこも雇ってくれないぞ。男なら大卒で免許くらいないとな。ほら、ちょっと当ててみろ」
 制服を肇に押しつける。肇は渋々従った。
「ほら、こうやってイメージしてみれば行く気にもなるだろう」
「そう、ですね」
「勉強ができなくて高校が嫌な訳じゃないんだろ」
「そうですけど」
 昭夫は肇の意見も聞かずに、服をクローゼットと押し入れに入れた収納ケースに振り分けていく。肇は机の引き出しに入れる物をもたもたと整理していた。
 服をさっさと押し込んだ昭夫は、次いでカセットテープの入った箱に取りかかろうとした。
 控えめな足音が玄関から聞こえてくる。
「あ」
 他人にそれを触られたくなかった肇は、小さく声を上げた。ノックの音がそれに重なる。
「差し入れ持ってきた。そろそろお昼にしよう」
 和郞の登場に、昭夫は片付けの手を止めた。肇はほっと息を吐いた。


 慣れない家で、新しい家族との生活も、夏休みの終わり頃には肇なりに折り合いが付くようになった。朝起きた時には味噌汁の香りがしており、それだけでごく普通の生活をしていると思えた。
 独り身の気楽さからなのか、時間が作っては様子を見に来る和郞の存在も、肇には心強い。だが、和郞に対して感じている親しみが家族や親戚に対するものだけでないことに戸惑うことも多くなった。それを恋愛感情としてしまうほどには割り切れていない。

 別の学区への引っ越しだったこともあり、三年生の二学期からと言う半端な時期の転校に不安だったが、越境通学が認められて安心した。

 二学期が始まれば、いよいよ進路希望を確定させなければならない。生活の心配はなくなり、肇が就職を希望しなければいけない理由はない。ただの肇の意地だけで就職と言い張っている状態だ。
 義男は世間体を気にして進学を勧める。いざとなれば幾らか積んで私学に押し込む算段をしているらしい。母親は義男の肩を持った。和郞でさえ、進路については肇の味方とは言いがたい。
 
 夏休みが明けてすぐ、和郞は肇を、誠朗高校の説明会に連れ出した。
 行儀よく出迎える高校生を見ると、さすがの肇も彼らのことが羨ましくなった。
 誠朗高校は、進学指導に力を入れている。主要教科では少人数制の授業を取り入れていること、中でも英語の上位クラスは高校二年生の夏休みに海外語学研修を受けられることが売りだ。だが、校内見学では図書室は貧相に感じられた。自宅に本もゲームもなかった肇は、娯楽を図書館で済ませる事が当たり前だった。内心、墨東高校への進学を希望していたのも、公立ながら専任の司書を配置し、蔵書を充実させているからだった。
 部活も、野球部やサッカー部、吹奏楽部といった一般的な部活がそろっているが、これと言って特色はない。大会実績も都大会止まりとぱっとしない。墨東高校は、活動できる時間の制約が厳しい中でも野球部は数年に一度は甲子園出場を果たしている。珍しいところでは天文部もあった。
 新しくコンピュータルームを作っており、来年度から授業に取り入れる予定だというのは、さすが資金力のある私学だと感じられた。

 帰りの電車の中で、和郞は誠朗校の感想を聞いてきた。
「悪くない学校だとは、思いますけど」
 感想を聞かれた肇は、そう答えた。
「気に入らないかな」
 和郞が残念そうに返す。悪くはないが、自分の進学先としての実感がないというのが肇の感想だ。
「どこか、他に気になる高校があるなら見学に付き合うよ」
「和郞さん、最近俺に付き合ってばっかりで仕事は大丈夫なんですか」
 彼女は、とは聞けなかった。いるとは聞いていないが、年齢を考えれば誰かと交際をしていてもおかしくはないだろう。仕事も、スーパーで働いていることは知っているが、具体的な事は知らない。
「新人や売り場の主任クラスは大変だけど、僕は精肉部の単なるスタッフで、出世コースからも外れちゃったしね。休みはそこそこ自由がきくんだよ。彼女もいないしね。肇くんのためならいくらでも調整するよ」
 働いた経験のない肇は、その言葉を鵜呑みにするしかできなかった。
「……和郞さんは前に、俺はもっと甘えていいって言いましたよね」
 肇は、和郞に対して感じる親しみを、どう名付けるのか、決めてしまおうという気持ちになった。
「うん」
 肇の真剣な表情に、和郞も気軽な態度を改めた。
「それ、今も思ってますか」
「思ってるよ。肇くんはいろいろ気を回しすぎる。中学生高校生なんて、もっと自分中心でいいし、僕でよければもっと甘えてくれて構わないんだよ」
「なら、俺が高校生でいる間は、俺だけが和郞さんに甘えていいですか」
 和郞の返事次第で、自分の抱いているものを恋愛感情だと割り切ってしまってもいい。相手から同じものが返ってこなくともいい。
 肇はそう思って、和郞が口を開くのを待った。
「構わないよ。それで肇くんが安心できるなら、僕は肇くんが甘えるのを受け止めるよ」
 自分だけが、という点には触れずに答えた和郞だが、肇にとっては十分な答えだった。

 その夜、肇は母親と義男に、墨東高校への進学を希望することを告げた。

 肇が意見を翻して進学することを決めたことで、担任も心配事が減ったと喜んだ。学校の成績は悪くないが、受験勉強は出遅れ気味の肇だが、義男が付けようとした家庭教師は断った。代わりに参考書をねだる。初めて肇にものをねだられて、義男はうれしそうに本屋へ付き添った。
 秋の模擬試験では、B判定とひとまずは安心できる結果を出した。何くれとなく面倒を見てくれる和郞の存在が助けになった。それに、好きな人にいいところを見せたいというのは、何よりの原動力だ。
「おまえ、雰囲気変わったよな」
 級友の牧野に言われて、肇は「好きな人ができたせい」と返した。牧野はいつもの悪い冗談だと取ったようだ。
「それにしても、受験勉強を始めるのが遅かったくせに俺よりいい成績なの、何なんだよ」
「社長のご子息様ですから」
「けっ、ただの親の再婚だろ」
 牧野も急に進路希望を墨東高校に変えた。共に合格できれば高校でもつるめると、お互いを応援しながら冬を迎えた。

 
 墨東高校の合格通知を持って和郞の住むマンションを訪ねたのは、春とは名ばかりの日だった。


     あひみての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり
 
      恋しい人と契を結んだあとの、今のわが心にくらべてみると、相逢う以前には、
      “恋の物思い”などといえるような心情を抱くことはなかったなあ。

                       『むかはものを』了


 ※百人一首および歌意は「解説百人一首」(橋本武 著)より引用しました。
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