ひとしれずこそ1章

5 通知表と携帯電話

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 肇のアパートに三泊した夏由は、いい加減に帰ってこいという母親の催促に従った。
 夕方の、都心へ向かう地下鉄は座席がすべて埋まる程度の混み具合だ。夏由は、ドアの前の座席横の仕切りに寄りかかった。地上区間を走る電車の窓から入ってくる日差しは強い。夏由は軽く目を閉じた。
 地下鉄が地下に潜ると、すぐに夏由の家の最寄り駅に着く。今度は降り損ねないように、ドアの前に立った。

 駅から十五分ほど歩いたところにあるマンションの一室が、夏由の家だ。林立する建物の間の路地で、近所の子供たちが水鉄砲で遊んでいる。夏由が通りかかると、ガキ大将らしい男の子が合図をした。行儀よく水鉄砲の先を地面に向けて、夏由が通り過ぎるのを待つ。
「いいぞ」
 夏由がマンションの通用口に入ると、男の子の声がした。それから再び、子供たちが遊ぶ声がする。

 母親に通知表を見せ小言を貰うと、ようやく夏休みが始まった実感がわいてきた。
「やっぱり今からでも、夏期講習くらい申し込んだ方がいいんじゃないの」
 夏由の成績は、校内で真ん中あたりだ。都内のそこそこの大学ならば狙えるが、全国的に名の知れた大学に入るのには厳しい。受験勉強は三年生になってからと考えていた夏由だが、小さな不安はあった。
「肇君も、せっかく都内に住んでいたのにわざわざ千葉に引っ越すなんて。あの程度の大学なら東京にいくらでもあるのに」
 浪人してまで行くような学校ではないと、手厳しい。
「兄さんだって、新婚家庭には居づらいって」
 夏由は叔父である肇のことを兄さんと呼んだ。父方の祖父の再婚相手の連れ子で血は繋がっておらず、夏由とは六歳しか離れていない。
 夏由の祖父と肇の母親が再婚したとき、肇は十六歳だった。高校の途中で名字が変わることを嫌って養子縁組をしていないため、夏由とは違う姓を名乗っている。
「石上さんも石上さんよね。いい年して年寄りに色目使って。いやらしいったらないわよ」
 肇の母親を頑なに旧姓で呼ぶ母に、夏由は返事をしなかった。
「ま、あんたも夏期講習は早めに考えてちょうだいね。大学はどこがいいの」
「まだわかんないよ」
「もう二年生の夏なのよ。早い子はとっくに予備校に行ってるっていうのに。のんきなこと言ってないでちょうだい。私立なら、親にだって都合があるんだし」
 暗に国公立を勧められ、夏由は口ごもった。話は終わりにしようとダイニングチェアから腰を上げる。
「そうそう、なんて言ったかしら、あの子、岡田君」
 慌てた様子で言う母に、夏由はキッチンに向かいながら顔だけそちらに向けた。
「あんたの携帯に何度か掛けたけど繋がらなかったって電話があったわよ。急ぎの用みたいだし、早く折り返してあげなさい」
「……うん」
 夏由は、冷凍庫からアイスキャンディーを出した。青いパッケージをはがす。ソーダ味の甘い匂いがした。

 岡田悠翔。
 終業式の日以降、夏由が一方的に気まずい思いを抱えている相手である。
 自室に入って携帯電話を取り出す。電話帳画面を呼び出して、悠翔の名前を探す。
 痛いほどに心臓が脈打つ。
 高い室温で表面が柔らかくなったアイスキャンディーは、歯で触れるだけで崩れそうになる。
 二口分を齧る間だけ逡巡し、夏由は携帯電話の通話ボタンを押した。
 耳に当てた携帯電話からは、コール音が聞こえる。
「時城」
 悠翔に名前を呼ばれ、夏由は口ごもった。
「あ、岡田」
「どうしたんだよ、急にケータイ繋がんないしさぁ」
「悪い。ちょっと電源切ったまま、忘れてて」
 語尾が小さくなった。
「三日も」
「悪かったって」
 小声で言うと、夏由はアイスキャンディーを噛んだ。
「まあいいけどさ」

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