ひとしれずこそ1章

11 迎え火

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東京では七月に行われることの多いお盆の行事を、夏由なつゆきの祖父は八月に行う。時城ときしろの家の古くからの風習だという。わざわざ息子たちとその家族を呼び寄せて迎え火を焚く。仏壇に手を合わせた後の夕食には、決まって素麺と天麩羅が出される。
「まったく、石上さんと顔を合わせるのだけでも嫌なのに。一緒に食事なんてこれっきりにして欲しいわ」
 夏由の母、泰子やすこが居間で小声で言った。はじめは夏由の祖父の義男よしおを手伝い、庭で火の始末をしている。夏由は仏間から居間へ戻る縁側の途中で、祖父と若い叔父を振り返った。もう一人の叔父、和郞はまだ来ていない。
「おい、肇くんに聞こえるぞ」
「構いやしないわよ」
 夫の昭夫あきおにたしなめられても平然としている。肇の母親であるかなえは、義男の後添えながら、すっかりこの家の女主人として振る舞っている。今は素麺を茹でているところだ。
「台所を手伝ってくる」
 いたたまれなくなった夏由は、顔だけ今に突っ込んで両親にそう告げると、足早に台所へ向かった。
「よしなさいよ」
「まあまあ、子ども達の前であまりみっともないことを言わないでくれよ」
 ここのところ増えた夫婦の言い合いがまた始まり、夏由は耳を塞ぎたい気分だった。

 夏由が台所に着くと、むわっとした蒸気が広がっていた。鍋から笊へ素麺をあげたところだ。
「あら、夏由くん。お腹すいたわよね。今お素麺、茹で上がりましたからね」
「手伝いますよ」
「まあ、ありがとう。しっかりしているのね」
 夏由は冷蔵庫から出しためんつゆの入った蕎麦徳利を二つ出した。ガラスの蕎麦猪口と一緒にお盆に乗せた。一つは甘めのつゆの香りがする。
「義男さんのはこっちを持って行って差し上げて。あの人、辛めのおつゆが好きでしょう」
 かなえが、小ぶりの白い徳利を示した。夏由の父の昭夫と叔父の和郞は、みりんの風味が強い、甘めのつゆが好きだ。元々は亡くなった祖母の好んだ味だという。
「茶色い方は甘いから、他の方はお好みでどうぞ。夏由くんはどっちが好きかしら」
 かなえは素麺を水で締めながら聞いた。赤いマニキュアの塗られた指先で、夏由は食欲を失った。作業台に用意された天麩羅はスーパーの出来合いのもので、冷めてべちゃっとしている。祖母は自分で揚げていたと、夏由は思い出した。
「食べられればどっちでも」
「あら、夏由くんもこだわりがないのね。うちの肇もそうだったわ。味付けなんて構わないの。それとも、若い男の子なんてみんなそうなのかしら。食べ盛りでいっつもお腹をすかしていれば、味なんてどうでもいいのかしらね」
 かなえがクスッと笑った。
「夏由、こっちだったのか。」
 肇が台所に入ってきた。
 「母さんもまだお線香あげてないだろ。和郞叔父さんも来たし、もう一回迎え火も支度するっていうから、一緒にあげてきたら。後はやっておくから」
「だって、皆さん私がそう言うことするの嫌がるじゃない」
 かなえが拗ねたような声を出した。
「じゃあ、これ持って行っちゃいます」
「持って行ったら向こうでゆっくりしていらして。後は運ぶだけだから」
 夏由はお盆を持って台所を出た。祖父の家は、どこにいても疲れると思った。

 結局夏由は最後まで配膳を手伝った。和郞の分の素麺を肇が茹でている間に、かなえが居間に入ってくる。庭からは、再び藁を燃やす匂いが漂ってくる。
「のびないうちに始めようか」
 祖父が箸を手に取った。座がそろわないまま食事が始まった。
「肇はやっと大学へ入ったかと思えば、今度は留年したが、夏由、お前はちゃんとした時城の人間だ、大学ぐらいすぐに入れるだろう」
 祖父の言葉に、夏由は箸で摘まみかけたカボチャの天麩羅を落としそうになった。
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