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庭先から呼ばれ、本間敬一郎は原稿用紙から顔をあげた。すっかり暗くなってしまったことに気がついて、行燈に火を入れてから縁側に出た。
「ちゃんと玄関から上がりなさいと言っているでしょう」
敬一郎の軽い叱責に少年は肩をすくませつつ脱いだ靴を拾う。
「お声はかけましたけど、気づかれなかったようですから」
パタパタと玄関に向かう少年を見送って、敬一郎は仕事部屋にしている六畳間をさっと片づける。台所に向かい薬缶を火にかけていると少年がすっと隣に立った。
「学校はどうだったかい。今日は試験だったか」
「ええ、でも手ごたえがなくて」
「直樹君は国立を志望だったかな」
直樹は小さく頷くと、敬一郎を手伝って夕飯の支度を始めた。包丁を扱う手はなかなか器用で、よく躾けられていることがうかがえる。利き手を痛めて以来何かと不自由している独り身にとってはありがたい存在だ。家には帰りたくないという直樹に甘えてしまい、敬一郎は申し訳なく感じた。
敬一郎がここに越してきたのは大学を中退した昨年の夏のことであった。隣家の琴原家は代々教員の一家で、直樹の進路もまた教員と定められていた。そんな息苦しさもあるのだろう、知り合ったばかりのころから直樹は敬一郎の家を良く訪れた。
敬一郎は実家の資産を食いつぶしながら、売れない小説を書いて暮らしている。参加する同人誌の仲間からも作品の評価は低い。会にある程度の資金を提供しているため追い出される心配はないものの、会合でも話しかけてくるものはほとんどいなかった。
食事を済ませたのちも、直樹は家に戻ろうとしない。食卓に学校の課題を広げている。襖をあけ放したままで、仕事部屋の文机から敬一郎は直樹の横顔を盗み見た。一つしかない火鉢ではふた部屋は暖まらず、寒いのか頬の色みは失せかけている。正座をして背筋を伸ばす直樹の様子を、敬一郎は紙面に表現してみる。形良い顎、聡明そうな目元、時折擦り合わせるてのひら、それぞれに似合う言葉を紡いでいく。
「もう遅いから、帰りなさい。風邪をひかせたら申し訳ない」
「はい」
素直にうなずきながらも、直樹は寂しそうな表情を見せた。帰り際、何時からか直樹はこんな顔をするようになった。上着を着せかけてやると無言のまま玄関まで並んで歩く。
「また明日うかがってもよろしいですか」
敬一郎は曖昧に頷いて戸を開ける。
「ご両親はなんて」
「予備校にいると思っているでしょうから」
「またそうやって嘘を言っているのかい」
直樹は気まずそうに俯いた。
「受験まで間もないんだろう。私の世話なんて焼いていないで構わないから」
「でも、手が」
「もう痛みがあるわけじゃないんだ。気に病むことはない」
この年の春、敬一郎は隣家の直樹のことをまだ知らなかった。花見には早い桜並木をぼんやりと歩いていた敬一郎は、前から駆けてくる少年に気が付いた。少年も周囲のことは目に入っていなかったのだろう、ぶつかってしまったのだ。抱きとめる形になった敬一郎は少年の背後にいる男たちに目を止めた。
「このガキ、この始末をどう付けてくれるんだ」
男は大事そうに抱えた荷物をちらりと見せた。
「いくらすると思ってるんだ。其処のやつ、そいつをよこせ」
男は敬一郎の腕から少年を引きはがそうとする。典型的な当たり屋だと目をつけた敬一郎は少年を庇うと、つかみかかろうとしてきた男を殴りつけた。護身程度の武術ならば心得がないこともない。
「兄貴に何しやがる」
牽制のつもりの一発がきれいに決まってしまった。男が気を失ったのを見ると、連れは懐から刃物を取り出した。乱暴に振り回す。
「よさないか」
敬一郎は男の肘をつかもうとしたが、うまくいかず、刃物が腕に刺さった。
「ひっ」
少し脅すつもりが怪我をさせたことに驚いたのだろう。男は二三歩あとずさった。
「行くよ」
敬一郎は少年の腕をひいてその場から離れた。追っ手がないことを確認すると、木陰に入った。
「あの、怪我」
「ああ、大したことないよ」
「着物も切れて」
「勝手にしたことだから」
少年はおろおろと視線をさまよわせると、思い出したように鞄からハンカチを出した。敬一郎の着物の袖をたくしあげると肘と手首の中間あたりに出来た傷口を縛った。
「どこかでちゃんと手当を。あ、後ほど治療代をお支払いしますので、連絡先を」
頭を下げる少年に敬一郎は首を振った。
「それよりまたやつらに会うといけないから送るよ」
「近くですから平気ですので」
困惑する少年を半ば無理やり送り届けた敬一郎は、そこで初めて隣家の直樹だと知ったのだ。
時間をおいて訪ねてきた直樹の両親に頭を下げられ、直樹と彼の父親と連れ立って病院へ向かった。敬一郎は必要ないと一度は断ったが、直樹の両親に重ねて勧められて渋々医師に見せたのだ。そこで案外深い傷だとわかった。怪我の具合を知った直樹は消沈した様子で待合室に座っていた。受付では直樹の父親が支払いを済ませている。やはり立替えてもらうだけにしてあとで返すべきだと考える敬一郎の耳に、直樹の沈んだ声が入り込む。
「ごめんなさい」
「こら、それ以上謝るな」
「あの、具合は」
「治れば動くから平気だよ」
筋を痛めたらしく、今は痛みもあって動かしづらいが直に良くなるとの見立てだ。そう告げると直樹は少し微笑んだ。上着を着るのに難儀していると着せかけてくれた。その行為にもう少し甘えたい気分で敬一郎は家に帰った。
それから数日経った日、見舞いにやってきた直樹は、敬一郎が家事に不自由していることを知り台所に立った。それを心配そうに見つめていた敬一郎だが、手際の良さに感心した。
「慣れてるね」
「去年まで従兄弟の家に下宿していたんです。食事の支度も引き受けてましたから」
直樹が振り返る。
「成績が下がって連れ戻されましたけど」
学校まではやや遠いが、通えない距離では無いのだという。
「そうだったのか」
出来上がった食事は敬一郎にはまねのできないうまさだった。以来、敬一郎はずるずると其の好意に甘えている。
年が明け、いよいよ受験生も忙しくなってくる頃、直樹はいつものように敬一郎の家に来ていた。食卓の炬燵に入り、互いに教科書と原稿に向かっているが、集中できていなかった。敬一郎は書き崩しの山をこしらえるばかりだし、直樹も同じ行ばかりに目が行ってしまう。同時に小さく溜息をついてしまい、顔を見合わせた。
「お茶、入れてきます」
直樹は照れたようにはにかむと席を立った。薬缶を扱う音が聞こえる。敬一郎は今日は作品に向かうのを諦め、原稿用紙を文机にしまった。直樹もお茶の支度を整えると、勉強道具を片づけてしまう。再び揃って炬燵で暖まる。
「はかどらないかい」
「最近身に入らないんです」
「何か考えごとでも」
敬一郎は直樹の目を覗き込んだ。
「あなたが」
直樹は小さく何か言った。
「なんだい」
「いえ」
直樹はかぶりを振った。
「あ、雪」
視線から逃れるように庭先に目をやった直樹は感嘆の声をあげた。
「道理で寒いわけだ」
敬一郎は思わず手を炬燵に入れた。そんな子供っぽさに直樹は思わず笑った。
「そんなにおかしいかな」
「なんとなくあなたに似合わなくて」
「そうかな」
直樹も炬燵の中に手を入れた。小さな炬燵のなかで互いの手が触れた。
「冷たい」
敬一郎は直樹の手を握った。
「敬一郎さん」
直樹が思わずひっこめるのを特に追いかけず、敬一郎は手を炬燵から出した。
「触って、いいですか」
「いいよ」
卓上で直樹は敬一郎の手を握った。それから袖の中まで手を入れ、傷跡に指を這わす。
敬一郎はされるままに白い腕をあらわにした。空いた手で直樹の頬をなでる。
「君も冷たい」
直樹は目を閉じて敬一郎の手の感覚を楽しんだ。
「大学に受かって、春になったら、今度は一人で暮らすつもりです」
直樹がゆっくりと目を開ける。案外まつげが長いのだと、敬一郎は思った。
「そうしたら、今度はあなたが遊びに来てくださいますか」
それならきっと合格して貰わなくてはと答える敬一郎に、直樹は今までで一番の笑顔を見せた。
次の桜が咲く頃にはいくらか稿料が入ればいいのだがと、敬一郎は書きかけの小説の続きを考え始めた。