老婆の語り

思い出

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 兄は幾つになっても美しい人でした。
 曾祖母が交わったという異人の血のおかげか、白い肌をしておりました。額には青く血管が透けて、頬は決して薔薇色には染まらず、髪は波打つ栗色でふっくらとした顔を縁取っておりました。
 稀に見る美童と噂されましたが、やけにとがった八重歯だけは気味悪がられておりました。けれどもわたくしは、その白く、ランプの灯りを受けて輝く八重歯に魅せられておりました。幼い頃にはよくせがんで、笑うことのない、口の端をほんの少し持ち上げるところも記憶にないような兄の赤い唇を少し開けてもらい、その八重歯を見せてもらったのでした。

 兄は日に当たることを好まず、いつも窓掛けをしっかりと閉じた部屋の中で、何やら難しい本を読んでおりました。学校へはあまり通わず、体が弱いからと言うことで家庭教師を招いて学んでおりましたが、普通の子らが義務教育を終える年頃には、もう大学生が使うような本を教科書にしていたようです。
 兄の授業の進みが速いためだったのでしょうか、先生を招くようになったはじめの頃は、一年とたたずに先生が替わったものでした。やがて一人の、やはり美しい男の方がみえて、その先生は長く教えておりました。その前の先生の紹介だったと記憶しております。年は聞いたことがありませんが、とても若く見えました。どう見積もっても三十路は越えないように思われました。しばらくは申し送りなどもあったのでしょうか、前の先生と一緒にいらしましたが、やがてお一人で教えに来るようになりました。

 兄は少年と呼ばれる年頃になっても幼い姿をしておりました。これも体が丈夫でないためでしょうか、背もあまり伸びず、三つ年下の私の方がかえって高いくらいでした。幼子のようにふっくらとした頬に、ほっそりとした首、肩も薄く触れるのをためらうほどでした。共に外を歩けば、私の方が年の離れた姉に見えることもありましたが、誇り高い兄はそれを嫌いました。

 そういえば、その先生がいらっしゃるようになってからでしょうか、兄は幾分か健康になったようで、とは申しましても他の子供たちのように外を駆け回るわけではございません。顔色の良いときが増えまして、また通りをいくつか渡った先の図書館へ息を切らさずに歩けるようになったのです。わたくしが歩けば、幼い頃でも四半時間の距離でしたが兄には長い道のりでした。古い建物を市が買い取って、その蔵書をそのまま受け継いだという図書館は、まだ印刷などなかった頃の外国の書物なども充実しております。尤もそれらの本は大変貴重で、一般の人の目に触れることはございません。大学で古い時代を研究するような信頼のおける方にだけに閲覧が許されておりましたが、兄は先生の伝手で読むことを許されていたようです。

 兄はずいぶん熱心に古い書物を調べておりました。古い時代の生き物、とりわけ空想上の生き物に興味があったようで、兄の書物をうっかり開いた日には、おそろしい怪物の挿絵に仰天し、幾晩かは寝付けなくなりました。それなのに兄のしていることが知りたくて、ついつい兄の出かけている間にまた本を開いてしまうのです。
 ふと兄の大事にしている本に、黒ずんだ染みがついていることを見つけたのもそんな折でした。床のお掃除でもしていて汚れた手で触ったか、いえ、兄は家のことには無頓着でした。兄の部屋の掃き掃除なども母がまめにしておりましたので、兄が自ら行うことはありません。ならばわたくしが触れたときに汚してしまったのだと思い、そのときにはまるで兄のように青ざめたのでした。

 兄は怒るときには大変厳しい人でした。声を荒げることはありませんが、わたくしが間違ったことをしたときには、わたくしが真にいけなかったことを理解し反省するまでけっして許しませんでした。それでも兄が間違ったことを申す理由はありませんので、兄の言うことをよくよく考えて見ればわたくしが間違っていたことは確かなのですし、それならば反省しなくてはなりません。兄の教育のおかげか、わたくしも真面目で間違ったことはしない子だと世間では評判でした。

 そんな兄に許しを請わなくてはならないと思うと、いっそ黙っていようかと思いました。そもそも本を手に取ることさえ兄には内緒でしていることでしたので、それだけでもきっと怒られるに違いない、そう思っていたのです。
 狡いわたくしは、お掃除の時に見つけたと偽って、兄に本が汚れていることを伝えました。兄についたいくつかの嘘のうちでも、これは大きなものでした。兄はわたくしの嘘に気がついたのか、それとも気がつかなかったのかはわかりませんが、ああこれは紙で指を切ってしまったときに付いたものだと申しました。わたくしがどれほど安堵したかはわからないでしょう。兄に叱られずにすむとはそれほどの事なのでした。

 あの先生も、いつの間にかいらっしゃらなくなりました。今になって思えば、最後の頃はずいぶんと青い顔をなさっておりましたので、ご病気でもなされたのかもしれません。あの先生がお辞めになってどのくらいが経ったでしょうか、兄が不意の病で亡くなりました。思えば体が弱い割には大きな病は覚えがありません。普段は丈夫なわたくしの方が、風邪やら何やら病気はしており子供心に不思議でありました。先生がお辞めになってからは、兄はまた以前のように血のかよわないような肌をして、すっかり図書館に行くこともなくなり、たいして広くもない家の中を歩くにも息を切らしておりました。

 そうそう、この本が先ほどお話しした本です。学校へは人並みに通いましたわたくしも、外国の古い言葉はわかりません。この本の題名は、そう、化け物の名前なのですね。それはどんな。ええ、不健康な肌の色をした美しい、八重歯のある、唇だけが赤い、ああ兄のような。え、まさかそんな。兄は化け物などではありませんよ。どなたかの生き血を啜るようなところなど、一度たりとも見たことがございませんもの。

 尤も、兄が先生方に教わっている時は、兄の部屋に入るどころか近づくことも許されませんでした。わたくしだけでなく両親も出かけていることが多かったとは思います。


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