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目を覚ますと、米の炊ける匂いと包丁を使う音に混じって雨音がする。昨日降り始めた雨は、やはり止まなかった。
弘哉は布団の上で寝返りを打って横向きになった。夏掛けの薄い布団を肩まで引き上げる。枕元のスマートフォンに手を伸ばした。まだ七時前だが、最近の弘哉にとってはいつもの起床時間だ。
身支度をして台所に行けば、清也がちょうど朝食の支度を済ませる頃合いだろう。
だが今朝は起きるのが億劫だった。
ここしばらく、弘哉は清也と満足に口をきいていない。清也の前では得体の知れない苛立ちを感じてしまうのだ。清也が変わらない態度でいることも、弘哉には鬱陶しかった。
鳴り出したアラームを止めると、弘哉は再び目を閉じた。もう少し寝ていても大学の授業には間に合う。食欲もないので一食くらい抜いたって構わないと考えているうちに、弘哉は眠ってしまった。
「弘哉くん」
襖の向こうから声を掛けられ、弘哉は薄目を開けた。手に持ったままだったスマートフォンを見る。時間はそれほど経っていない。
「弘哉くん」
「はい」
返事をして、弘哉は喉の違和感に気がついた。
「そろそろ起きれるかい。ご飯出来てるけど」
「食欲が無くて」
声がかすれた。
「弘哉くん、大丈夫かい。入るよ」
清也が六畳間の襖を開ける音がし、続いて寝室に使っている四畳半の襖が開けられた。弘哉は布団の上に体を起こす。頭がクラクラした。
「体調が悪そうだね。風邪かな」
清也が布団の脇に膝をつき、弘哉に向けて手を伸ばす。額に触れるか触れないかのところで、弘哉はその手を払いのけた。
「……体温計、持ってくるよ」
「平気です。ちょっと友達と約束があるんで」
弘哉は立ち上がり、着替えの支度を始める。清也は何か言いかけたが、黙って寝室を出た。
台所には寄らず清也の家を出た弘哉は、歩き始めてすぐに強い喉の渇きを感じた。駅前のコンビニでスポーツドリンクを買う。
傘を持ったままキャップを開けるのに少し手間取る。ゆっくり飲むつもりが、一度口を付けたら一気に飲み干してしまった。熱が上がってきた自覚がある。かといって、今から清也の家に戻る気にもなれなかった。とりあえず地下鉄に乗って大学へ向かうことにする。
涼しい車内で座っていたためか、大学へ着く頃には気分は落ち着いていた。八時過ぎの閑散としたキャンパス内を歩いて、文学部が主に使用している建物に入る。カフェテリアも学食もまだ開いていない。広い廊下に置かれた自習スペースを確保する。左右に衝立の付いた机だ。スマートフォンを取り出して、三上にメールを打つ。
そうしているうちに生協が空く時間になった。
生協でスポーツドリンクを買い足し、ついでにゼリー飲料を買った。キャンパス内は、一時限目の授業に出席する学生が登校し始めている。
弘哉は確保しておいた自習スペースに戻ると、ゼリー飲料をすすりながらスマートフォンを確認した。三上からの返信はまだ無い。最近始めたツイッターを見てみると、三上の投稿が見つかった。昨夜は結局生協の傘を買って帰り、夜は遅くまでゲームをしていたらしい。ならばまだ寝ているのかも知れないと弘哉はため息をついた。
「木戸。おおい、木戸」
肩を揺すられて弘哉は目を覚ました。いつの間にか寝ていたらしい。
「三上か」
「悪いな、メール見るの遅くなった」
「いや、こっちこそ急で悪い。今、何限」
三上が腕時計を見る。
「お前、すっげー鼻声じゃん。もうじき二限が終わるとこ」
三時間以上寝ていたことになる。弘哉はゼリー飲料の空き容器をビニール袋にまとめた。飲みさしのペットボトルはリュックのサイドのポケットに押し込む。
「悪いけど、今日お前ん家に泊めてくれないかな」
「いいけど、体調悪いなら家帰れよ。病院は行ったのか」
「行ってない」
「せめて医務室にでも行けよ」
弘哉の荷物を勝手に持ち、三上がゆっくりと歩き出した。弘哉は傘だけ腕にぶら下げてその後に続く。
途中でドラッグストアに寄ってから、三上の家に移動した。
大学から一駅離れたところにある三上の住むマンションは少し散らかっているが、ソファー代わりにも使っているらしいベッドは整えられていた。
三上は弘哉にベッドを使うように勧めた。
「体調悪いってメールだったし、一応シーツは綺麗なのにしておいた」
「ありがと」
遠慮無く横になる弘哉。キッチンの引き出しをごそごそとやっていた三上が、何か小さいものを投げて寄越す。体温計だ。
「滅多に使わないから奥に入ってた。一応計っておけよ。なんか食えそうか」
借りた体温計を脇に挟みながら、弘哉は首を振った。
「朝飯は、さっきのゼリーだけか」
弘哉が頷く。体温計が鳴った。37.5℃。完全に風邪である。弘哉は三上に体温計を返した。
「結構あんな。用意してやるから休んでろ」
三上が台所に立つと、弘哉はスマートフォンを確認した。
清也からの着信とメールが溜まっていた。