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土曜日、弘哉は大学の授業も無く、六畳間でレポートを書いていた。
向かいの部屋から、清也が出かける気配がする。弘哉はノートパソコンから顔を上げて廊下に出る襖に振り返った。見送ろうかと立ち上がりかけて、もぞもぞと座り直す。真新しい机も椅子も、和室には馴染まない。
清也は週に三日、仕事をしている。近所のディスカウントショップで夕方からの勤務で、帰りは日付が変わる頃になる。
やがて、襖を開け閉めする音がして、廊下がギシッと鳴った。
「じゃあ行ってくるから、火の始末と戸締まりはしっかりな」
「行ってらっしゃい」
襖越しに返事をする。清也が向かいの六畳間を通って縁側に出たらしい足音が聞こえた。弘哉が出かけるとき、清也はいつも玄関まで見送りに出てくる。だが弘哉が見送ろうとすると「気を遣わなくていい」と言って断る。それが弘哉にはつまらなかった。
弘哉が使っている二部屋から、廊下を挟んで向かいにある六畳間と、その続きになっている八畳間が清也の部屋だ。他に広い台所とリビングもあるこの家は、清也の祖父が建てたものらしい。しばらく空き家になっていたのを、清也の上京にあわせて水回りを新しくするなどしたという。
夜、レポートが仕上がった弘哉は台所に立った。煮物を温め直す。仕事に出かける前に清也が、わざわざ弘哉の分だけ用意しておくのだ。小鍋を火に掛けている間に塩鮭の切り身を焼けば、夕飯の支度は済んでしまう。
「頂きます」
弘哉は誰もいないテーブルについた。
煮物は、弘哉の好みよりも薄味だが、出汁が利いている。塩鮭は身が崩れた。
一人きりの食事はすぐに済んでしまう。
食後、弘哉は洗い物をしてから風呂場に向かった。ここもきちんと掃除がされ、後は湯張りをすれば良いだけになっている。出勤前に清也がシャワーを使った気配は残っていない。自分一人だけのために湯を溜めるのも勿体なく感じ、清也が不在の日は弘哉もシャワーだけにしている。
「夜、そのまま置いておいてくれても構わないよ」
翌日の朝食の席で、清也が言った。夕食後の片付けはしなくても良いというのだ。
「別に、片付けくらいわけないですし。茶碗は朝も使うから」
弘哉は反論して白米を口に運んだ。少し硬めの炊き加減には慣れたが、甘い卵焼きだけは好きになれない。それでもせっかく作ってくれた物だからと無理して食べる。だからもうずっと、朝は不機嫌だ。
「兄さんだって帰りが遅いし、朝はゆっくりしてても良いのに」
「もう習慣だからね。それに卵を焼いて味噌汁を作るだけだし、そんなに手間でも無いよ」
清也は食べ終わった食器を流しに運ぶ。台拭きを手にテーブルに戻ってきた。入れ替わりに弘哉も自分の分をまとめて持って行くと、そのままスポンジを取った。
「そのままでいいよ、僕がやるから」
気がついた清也が制する。だが、弘哉はそのまま洗い始めた。納豆のぬめりは、洗剤を使っても落ちにくい。
「このくらい手伝います」
ムキになって茶碗をこすりながら弘哉が言う。
「……分かった。じゃあ今回は任せるね」
清也はそう言って台所を出た。弘哉はため息をついて、無意識に入っていた肩の力を抜いた。
食器を片付けたついでに掃除をする。焦げ茶色をした
「掃除までしなくて良いよ」
「ついでですし。廊下もやっちゃいますよ」
弘哉は箒を掲げてから、清也とすれ違った。
「せっかくの休みでしょ。ゆっくりしたら良いのに」
「休みの時くらい、家のことやりますって」
清也が、弘哉の肩に手を置いて引き留めようとする。弘哉は半身になって清也を見た。
「あ、済みません。兄さんも休みなのに家の中でバタバタしてたら休まらないですよね」
「いや、それは良いんだけど」
言いながら、清也が箒を取り上げる。
「子どもがそんなに気を遣わなくて良いって、いつも言ってるでしょ」
諭すような口調に、弘哉はすこし俯いて眉根を寄せた。台所に箒を片付けた清也が、弘哉を振り返る。
「さあ、コーヒーでも淹れてあげようか」
ちょっと良い豆があるんだと言って、棚から袋を出す。
「ミルクと砂糖は」
「飲みたくなったら自分で淹れます」
弘哉は廊下に出て、リビングとの間のドアを勢いよく閉めた。
「弘哉くん」
追いかけようと走りかけた清也は、大きな音を立てて閉められたドアの前に立ち尽くした。弘哉が怒っているのは間違いないが、何に対して怒っているのか見当が付かないのである。なんと声をかけて良いか分からない。
大きく息を吐いて台所に引き返す。右手に持ったままだったコーヒーの袋を棚に戻した。代わりに、隣に置いてるインスタントコーヒーの瓶を手に取る。自分一人用に、豆を挽く手間をかけるのが面倒くさくなってしまった。
スプーンでいい加減にはかってマグカップに入れ、ポットの湯を注ぐ。
思いのほか濃くなってしまったコーヒーは、やけに苦かった。