雨が止む頃

雨が止む頃 1

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 目を覚ますと、米の炊ける匂いと包丁を使う音がしている。
 木戸弘哉ひろやは、それだけでなんだかホッとしたような気分になった。
 障子越しに、外の明るさを感じる。ここ数日降り続いていた雨が、今朝は止んでいるらしい。
 弘哉は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。大学進学を機にそれまで使っていた携帯電話から買い換えたものだ。
 まだ七時前。弘哉にとって、自然に目が覚めたにしては早い時間だ。あと三十分寝ていても、大学の授業に間に合う。起き出そうか迷っているうちに、味噌汁の匂いがしてきた。
 布団から出て、ふすまを開ける。隣の六畳間を通り抜けて、もう一枚ふすまを開けると広い台所がある。家主の高杉清也きよなりがアルミの鍋に向かっていた。
 清也は、家に居るときでもきちんと身なりを整えている。出かける用事が無ければ一日中、寝間着代わりのスエットで過ごしてしまう弘哉とは大違いだ。今もオックスフォードシャツの袖を丁寧に捲った姿で味噌汁の味を見ている。
「おはよう、ございます」
 弘哉がぎこちなく挨拶をすると清也が振り向いた。遠縁で歳も近い相手に、どんな言葉遣いをすればいいのか、いつも迷う。
「おはよう。よく眠れた」
 清也は突然面倒を見ることになった相手にも、迷惑そうな顔ひとつしたことが無い。最近は年に一、二度会うだけだった弘哉にも、ごく自然に打ち解けた態度を取った。
「はい」
 弘哉が清也の世話になり始めて一週間。古い作りのこの家にもようやく慣れ始めたところだ。今まで畳に布団を敷いて寝る習慣がなく落ち着かなかったが、昨晩は久しぶりにぐっすり眠れた。
「良かった。顔色もいいみたいだ」
 弘哉が頷くと、清也は目元を緩めた。それがなんだか眩しいように思えて、弘哉は視線をそらせた。
「朝ご飯、もう出来るから、着替えて顔洗っておいで」
 ギシギシと鳴る廊下の先の洗面所を使ってから、寝室にしている四畳半の和室に戻る。弘哉は押し入れを開け、少し迷って、襟の付いたシャツを選ぶ。カジュアルだがくだけすぎない服装は、少しでも清也に釣り合うようにと選んだものだ。

 身支度を済ませて台所に入る。小さなダイニングテーブルには、すでに朝食がほとんど並んでいた。卵焼きからは甘い匂いがしている。弘哉は不満げに息を吐いて席に着いた。清也はご飯をよそっていて、弘哉の様子には気がついていない。
「お待ちどおさま」
 お盆は使わず手で茶碗を運んできた清也も、向かいに座った。
 味噌汁の具材は、大根だった。頂きます、と口の中で呟いて箸を取る。弘哉はまず味噌汁に口を付けてから、卵焼きに箸を伸ばした。綺麗な焦げ目が付いている。
「甘いのにしちゃったけど、良かったかな」
 納豆をぐるぐるかき混ぜながら清也が訊ねる。
 弘哉は卵焼きを口の中に押し込んだ。砂糖とみりんの甘さがする。
「大丈夫、です」
 食べられないわけでは無いというつもりで、弘哉は言った。
 弘哉はもう一度味噌汁を飲んでから、茶碗を手に取った。少し固めに炊かれたご飯が、喉に引っかかるような気がする。
「ご飯に甘い卵焼きって、嫌いな人も居るからね」
 清也は安心したように微笑んだ。納豆をご飯にかけてから、卵焼きを箸で摘まむ。
「兄さんは、甘いのが好きなんですか」
「うん」
 清也は嬉しそうに卵焼きを頬張った。
「子どもの頃、甘いお菓子とかは禁止されてたからね。だから朝ご飯の卵焼きがいつも楽しみだったんだ」
 そう言って清也が納豆ご飯をかき込んだ。粗野な行為だが、不思議と見苦しくはない。
 弘哉は醤油を垂らした納豆を軽く混ぜると、ご飯にはかけずにそのまま食べた。それを清也が不思議そうに見ている。
 
 大学へ行く準備を整えた弘哉は、腕時計を見た。連休明け初日ということもあって、少しだけ億劫な気分だ。何度もリュックサックを開けたり閉めたりしてグズグズしているうちに、家を出る時間になった。
 廊下を軋ませて玄関へ向かう。清也の部屋の方から、ふすまを開け閉めする音が聞こえた。
「今日は、授業は」
 弘哉が上り框に座って靴を履いていると、清也が見送りに出てきた。今までは遅刻ギリギリに家を出ていたが、今日はまだ余裕がある。
「二限と四限だけだから、あんまり遅くはならないと思う」
「わかった。気を付けて」
 清也が弘哉の両肩をポンと叩いた。ふっと、気分が軽くなる。
「行ってきます」
 弘哉は上り框から立ち上がった。リュックサックを左肩に掛ける。先ほどまでの憂鬱は、すっかり消えていた。
「行ってらっしゃい」
 当たり前の挨拶に背中を押される。弘哉は玄関の引き戸を開けた。
 今日は一日晴れが続きそうだ。



『雨が止む頃』

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