雨が止む頃

雨が止む頃 3

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 昼過ぎから曇り始めた空は、夕方には雨になった。
 大学のカフェテリアでは、学生の小さなため息や落胆の声がそこかしこから聞こえる。窓際の席に座っていた木戸弘哉は、空を見上げて不機嫌そうな顔をした。三上も雨に気がついたようだ。
 三上とは、同じ授業をいくつか取った縁で知り合った。誘い合わせて遊びに出かけるほどの仲ではないが、空き時間が重なれば連れだってコーヒーを飲みに来る程度には親しくしている。
「木戸、お前ん家近いだろ。泊めてくんない。それか、傘貸して」
 三上が気安い調子で言った。以前、一人暮らしをしていた弘哉の部屋に来たことがあるのだ。そのときもやはり雨で、傘を貸してやった。
「コンビニのが近いだろ。それに俺、引っ越したんだよ」
 大学内に出店しているコンビニなら、隣の建物にある。渡り廊下伝いに行くことが出来るので濡れずに済む。
「ビニ傘一本に六百円も出すのもったいないって」
「じゃあ生協。あそこなら三百円のがあったはず」
 こちらは少し離れているが、弘哉が元住んでいた部屋よりはよほど近い。
「あれすぐ壊れるじゃん。それより」
 三上が顔をしかめた。それから、弘哉の方へ身を乗り出してくる。
「引っ越したって、聞いてないけど」
「言ってないし」
 チャイムが鳴ったのを機に、弘哉がペーパーカップを持って立ち上がる。これからもう一コマ授業があるのだ。
「えー、帰んのめんどいときに泊まらせて貰うつもりだったのに」
 グズグズ言いながら三上も席を立った。同じ授業を受けるので、連れだって教室に向かう。
「いつよ、引っ越したんは」
「先月。連休中に」
「随分半端な時期じゃん。更新だってまだだったんじゃ無いの」
「まあ、ちょっとな。それよりあのレポートって」
 訳を知りたそうな三上に聞かれる前に、弘哉は話題を変えた。三上は、距離は近いが察しは悪くない。ため息をついただけで詮索はしてこなかった。

 大学進学を機に親元を離れた弘哉は、始めの一年ほどは一人暮らしをしていた。学生の多い町はそれなりに暮らしやすかったが、誰もいない家に帰ることにはなかなか慣れなかった。
 実家は、今どき珍しい大家族だ。母屋には弘哉の家族の他に大伯父一家が住んでいたし、離れや近隣にも親戚一同が固まって暮らしていた。
 だから、高校を卒業するまで一人で過ごす時間はほとんど無かったのである。

「止みそうにねえな」
 授業中、三上が小声で話しかけてきた。弘哉は黙って頷く。広い教室だが席は半分も埋まっていない。言語学を専攻する予定の学生にとっては半ば必修のような授業だが、今年は担当の教授がサバティカル研究のための休暇のため、他大学の講師が担当している。そのため、今年の受講を見合わせる学生が多かったのだ。
「明日いっぱいは降るだろう」
 返事をして、弘哉はノートにペンを走らせた。三上はすっかりやる気を無くしているようだ。テキストすら閉じてしまい、机の上に重ねた両手に顎を乗せている。この調子では、試験前にはノートのコピーを頼まれそうだ。
「引っ越しか。お前ん家近いし便利そうだったけど」
「人ん家を寝床代わりにするなよ」
 弘哉は、ペンのお尻で三上の頬を小突いた。
「新居にもそのうち行っていいか。一人暮らしだろ」
「ううん、親戚ん家に下宿」
 わああ、と三上が大げさに驚いた表情をした。
「そういうの、気ぃ使うだろ」
「まあ、多少はな」
「でもお前、最近顔色良くなったし、良かったんじゃね」
 何気ない調子で三上が言う。弘哉は返事をせず、授業に集中し直す振りをした。

 授業が終わると、三上はあっさりと去って行った。傘を貸してくれそうな相手を見つけたか、諦めてコンビニまで走ったのかは知らない。
 弘哉はレインコートの代わりにウィンドブレーカーを羽織って建物を出る。リュックサックが濡れてしまうのは諦めるほか無かった。
――やっぱり傘を持ってくれば良かった。
 弘哉は恨めしそうに空を見上げた。清也の忠告を無視したことが悔やまれる。
 それでも、コンビニか生協に寄って傘を買う気にはなれなかった。

 今朝も、卵焼きは甘かった。いつもは清也と半分ずつ食べるところを、今日は二切れしか手を付けなかった。ギシギシなる廊下も耳障りだ。
 今までは仕方が無いと思っていた些細なことが、この頃はかんに障る。イライラした気分で玄関を出る弘哉の背中に、清也が声を掛けた。
「傘、念のために持っていった方が良いよ」
 天気予報では、今夜から雨になると言っていた。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
 いつもと変わらない態度を見せる清也に、弘哉は泣きたい気分になった。

 濡れた体で地下鉄に乗るのは気が引ける。弘哉はドアの前に立ち、リュックサックを抱えた。冷房がきいた車内が寒い。惨めな気分になる。
 清也の家の最寄り駅は、弘哉が立っていたのとは反対側のドアが開く。人をかき分けて車内を進む弘哉に、誰かが舌打ちした。
 駅から清也の家までが、いつもより遠く感じる。
 ようやく家の明かりを目にした弘哉は、無意識にため息をついた。
 玄関の鍵を開けて、引き戸に手を掛ける。
「おかえり」
 戸を開ける音に気がついた弘哉が、縁側伝いに出迎えに来た。タオルはすでに、靴箱の上に用意されている。
「お風呂沸いてるから、温まっておいで」
 弘哉は清也を無視して自分の部屋へ入っていった。



『雨が止む頃』

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